デラシネのーと

けーごの雑記

夏の季語

鮨(すし)は冬に食べたほうが魚に脂が乗ってて美味しそうというイメージがあるかもしれませんが、なんと夏の季語なのだそうです。コハダに鯖にエトセトラ、青魚が美味しい季節の到来、夏本番は鮨本番というわけですね。ちなみにこの情報はセブンの窓際、いわゆる「立ち読みゾーン」に置いてあった、まんべんなく鮨のことばかり書かれた実にニッチな冊子に載っていた情報なので間違いないと思います。

 

ただし日本で最も手垢のついた古今独歩のデータベースとも言える我らが「広辞苑」を調べたところ、鮨が夏の季語とされるのは酢が暑さに耐えるからだそう。

なんでぇシャリの力かよと思うと同時に、なるほどやはり体温まで計算して精緻にシャリをこしらえる職人さんの玄人芸こそ鮨の味わいの醍醐味であって、あの手間と技術のおかげで季語としても存在を許されているわけです。古人之糟粕(こじんのそうはく)というわけではないですが、くるくる回る米の上に魚が乗っかってるだけのアレを夏の句の中に盛り込むとどこかからお叱りを受けるかもしれません。ワビ「サビ」が無いとはこういうことでしょうか(今思いついた)。

 

そんな夏の訪れですが、西日本に未曽有の被害を振り撒いていったことも完全に事実で。

 

「距離」という概念は不思議なもので、例えば「手を繋げるほどの距離」と言ったところで、それが駅の公衆便所の個室の隣同士となると、物理的な距離どうこうではなく2人の距離は無限ほども離れているわけです。

声を交わし意見を交わし、他人のパーソナリティと人となりを意識して初めて、他人事という足枷を外したうえで僕らは他人に水を向けることが出来るのかなと。交わることのない赤の他人の苦しみは所詮、赤の他人の苦しみ。洗濯の色移りみたいに誰かの不幸をメンタルに染み込ませて、いちいち不幸せになることはないと思うんですが、それこそ赤の他人の「赤」が色落ちしてしまったのか、今日は関りもしない遠くの人間を不幸を酷く意識した日でした。というのも、仕事でプレゼントキャンペーンの商品発送の手続きをしていたところ、九州方面に向けての集荷は現在扱ってないと言われたんですよね。

 

なんというか、「あー」と思いました。

 

13府県で、現在死亡者126名。この平成最悪の豪雨が「平成30年7月豪雨」として気象庁に定められたそうです。平成最後の夏の始まりは最悪だったと言っても全国的には差し支えなさそう。

 

東京の雑踏はというとびっくりするくらい平常運転で、豪雨のすさまじさの代わりに、他人という距離のすさまじさを物語っています。

僕個人としても、変に「どこかの誰か」を意識してしまったために、いつものように「心を痛める」という安っぽい言葉に逃げられず、苦し紛れに芽生えてきた良心のジト目に見張られてるせいで大きく居直れもせず、心の据え処に居心地の悪さを感じてる次第です。

ここにはまだジメっとした空気が流れていて、梅雨はあがっていません。

 

 

馬鹿正直にこんなこと書いてたら、いつかライターなのに変なこと書くなとか言われるんですかね。でも例えば消防士が目につく火を全部消して回らないと怒られんのかっていうとそうじゃないですよね、料理もできやしねぇ。そんな奴キャンプも誘われません。(ライターと火の例えで、予期せずややこしくなった)

SNSもそうですが、あんまり人の眼を気にし過ぎるのもね。考えたらこれも、「炎上」ってことでややこしい。つうかそれ言い始めたら、「ライター」が「炎上」するのって当たり前すぎて草生えますね。その草もさぞ良く燃えることでしょう。

何言いたいのか分からなくなったから今日はここまで。